新人・中條 加菜アナ 初登板
中條 加菜アナウンサー。新年度早々、本日ニュースで初登板しました。
弊社期待の新人です。よろしくお願い申し上げます。
私は指導役の一人として、中條アナのデビュー戦にスタジオ内で立ち合いました。合格発表に付き添う保護者の気分でした・・・
中條 加菜アナウンサー。新年度早々、本日ニュースで初登板しました。
弊社期待の新人です。よろしくお願い申し上げます。
私は指導役の一人として、中條アナのデビュー戦にスタジオ内で立ち合いました。合格発表に付き添う保護者の気分でした・・・
平成29年入社の松田アナは、入社2年目の夏にRNCニュースeveryのキャスターに選任され、直後に西日本豪雨が発生。日々災害報道に携わり、また被災地に赴く事で、被災者の皆様の気持ちに寄り添った報道、また災害に備える事の重要性を学び、それらは後に彼女のニュースに対する向き合い方の柱となりました。その思いは後に防災士の資格取得につながり、また在職中は相棒、岸たけしアナウンサーと共に、ニュースeveryの「みんなの防災」制作に尽力して参りました。
彼女の語り手としての魅力は、気取らず、軽快さと優雅さの表裏一体。そして穏やかながらも芯はぶれず、その成長は地道ながらも、今日まで一歩一歩、アナウンサーとしての王道を歩んで参りました。今後も弊社で活躍する事を期待しておりましたが、新たな環境で自身の力を試したいとの思いがあり、この度の弊社卒業となりました。
松田アナと、石井奏美アナ、そして現在、神戸を主戦場としている男性アナの同期入社3人の、デビュー戦を前にした実戦訓練にお付き合いした事、非常に密度の濃い時間で、私にとって忘れられない思い出です。3人のデビュー戦=「初鳴き」後のお祝いの席、あれからもう4年ですか・・・。
松田さん、お疲れ様でした。ありがとう。
春は別れの季節、我がblogはあたかも卒業アルバムの如し。岸くん、こっち見るな。
藤田崇寛アナウンサーが、今春、弊社西日本放送を卒業しました。平成28年入社の藤田アナは、その温和な人柄と軽快な喋り、魅力あふれる笑顔でエリアの多くの方々から御支持を頂き、every.フライデーやWHAT’S なにこれ!?、シアワセ気分!など、弊社の看板番組の多くを担当するエースとして、これまで活躍して参りました。
またスポーツ中継においては、快活ながらも派手になり過ぎない、時に職人気質を思わせる様な堅実な実況で、これから弊社のスポーツ実況の要になると期待していた矢先、弊社を卒業となりました。
個人的には、藤田アナが放送デビュー戦に臨む直前の現場トレーニングにお付き合いした事が思い出されます(何か最近、日野道場とか言われている様です・・・)。それだけに彼の巣立ちは寂しくもありますが、「挑戦のための決断」。今後は、弊社で培った腕を新天地で存分にふるうとのこと、更なる成長、更なる活躍を期待するのみであります。
藤田君。お疲れ様でした。ありがとう。
デビュー戦直前の藤田君、懐かしい1枚。
「密回避」に従って、仕事始め後に初詣に行ってきました。正月明けの初詣は1994~95年の第73回全国高校サッカー選手権のスタッフを務めた時以来です。あの頃は毎年、東京・御茶ノ水のホテルでカップ麺を食べながら年を越すのが恒例でした(遠い目)。
「香川・岡山勢揃っての大晦日初戦突破は73回大会まで遡る・・・」との中桐アナのツイートを見て、「あ、僕は間違いなくオジサンだわ」と再認識。今年も頑張って生きよう(´・ω・`)
*公開終了
高松港に入港した護衛艦きりしま(DDG-174)。
こんごう型護衛艦の2番艦、イージス艦。高松港には13・14・15日の一般公開にあわせての入港となりました。「きりしま」の艦名の由来は日本海軍の戦艦「霧島」と同じく霧島山です。
さらにカタカナ表記のキリシマにすると地球艦隊の旗艦に(以下略)
山崎達也アナウンサーが、弊社西日本放送を卒業しました。昭和57年入社の山崎アナは、昭和の終わりから平成の始めにかけては、夕方放送のテレビニュース番組でメインキャスターを担当。また日本テレビ系列で放送されたズームイン朝では、植松おさみアナの後を継いで、岡山・香川の顔として活躍しました。また山崎アナと言えばスポーツ実況。弊社のスポーツ中継の歴史を語る上で、絶対に欠かせない存在でもあります。
少し脱線しますが、私が個人的に、山崎アナを語る上で欠かせない人物は、当時NHK高松放送局に所属していた近藤冨士雄アナウンサーです。私は高校在学時、近藤さんとはローカル番組等を介してご縁があり、一方、近藤アナと山崎アナは学生時代の同級生。私が西日本放送への入社が決まった時、タウン情報かがわの誌面を通じて頂いた「日野くん頑張れよ。困ったら先輩山崎の足を引っ張れ」とのエールは今でも忘れられません。その後、実際にどれほど足を引っ張ったかは内緒です(笑)
山崎アナは弊社卒業後も、岡山・香川エリアにとどまらず、系列の枠を超えて、スポーツ中継を通じて皆様の前に登場する機会が多々ありそうです。
山崎兄貴、お疲れ様でした。ありがとうございました。
森 佳子アナが本日、弊社、西日本放送ラジオ「ミュージック イン ランチボックス」の最後の出演を終え、弊社でのアナウンサーとしての活動に一区切り、となりました。
森さんは1974年以来、長年アナウンサーとして、弊社のラジオ・テレビの様々な番組で活躍しました。特に、往年の洋楽ファンに圧倒的に支持された「サウンドスペース」のVJとして、岡山・香川の洋楽文化を作り上げた一人と言っても過言ではありません。また80年代後半からは、当時、地方では珍しかったF-1の番組を担当。その後のF-1ブームを予見するかの様な、稀有な番組でもありました。
私も平成元年の入社以降、多くの現場で森さんとご一緒し、多くの事を学びました。特に、自身の放送に関わる姿勢、アナウンス業務の根幹に関わる大切な精神を教えられました。これは、今でも自身のアナウンサーとしての「芯」として大切にしております。
いつもと変わらない雰囲気、軽やかなテンポで、構えることなく番組を終え、マイクをOFFにした森さん。
お疲れさまでした。ありがとうございました。
建て替えのため近々取り壊しが決まっている、母校、高松第一高校の現校舎。新年早々、卒業生対象の校舎公開があり、お邪魔しました。教室、運動場、食堂、柔道場に音楽室・・・3年間を過ごした思い出深い校舎が無くなるのは、やはり寂しいものです。
我が母校・・・渕崎小学校は閉校し、紫雲中学校も武蔵野音大も既に建て替えられ、最後に残った高松一高も・・・。全てが思い出の景色になるんだなあと、しみじみ思う正月でした。
1981年にスタートし、弊社、西日本放送ラジオでも放送していた「ラジオはアメリカン」。番組終了から20数年、このほど東京で、その番組の同窓会的イベント「帰ってきたラジオはアメリカン」が開かれ、私も一人のリスナーとして参加してきました。
ステージに立たれた初代パーソナリティの大橋照子さんと、二代目パーソナリティの斉藤洋美さん、そして出演者でもあった放送作家の鶴間政行さん、お三方の懐かしい、あの頃と変わらない声、ただただ懐かしかったです。また番組放送時、主に小中高校生だったリスナーの皆様も平等に年齢を重ね(笑)、まさに会場は「同窓会」でした。
私が番組を「欠かさず」聴いていたのは、番組スタート時の中学3年生から高校卒業までの4年間。日曜夜10時15分からの30分、大橋照子さんの声を聴いて「明日から学校か」と思う毎週でした。当時の主な投稿手段はもちろんハガキで、様々なコーナーに投稿しましたが、リスナーのネタレベルは非常に高く、ほぼ毎週ボツ・・・そんな中、視聴者が自由なネタで、何か面白い事をカセットテープに録音する「面白カセット」のコーナーに投稿し、それが採用された時は、嬉しいと言うよりも、「自分の声がラジオで流れている」という、とてもとても不思議な気持になったことを記憶しています。私の声が電波にのったのは、おそらくあれが最初で、実はこれが、後の職業選択にも強く影響しております。
その後、大学の4年間を経て西日本放送に入社。入社後間もなく担当していたのが日曜夜11時前のニュース。ちょっと早めにラジオスタジオに入り、原稿のチェックなど準備をしながら毎週聴いていたのが、二代目ラジアメ担当・斉藤洋美さんの声でした。時に仕事で失敗したり、悔しい思いをして気持ちが沈んだ時も、斎藤さんの声を聴いて、自分が放送という仕事に興味を抱き、大きな夢を持っていた時代を思い出し、少なからず支えとなっていました。
「リスナーとしての立場」と「送り手側としての立場」両方の感覚をもって聴くことの出来た、自分にとっては稀有な存在、そんな番組でもありました。
気が付けば私も放送人30年生。社会人としてのゴールを意識した思考に陥る時もありますが、今回のイベントで、あの頃と変わらないラジアメパーソナリティの元気なお姿を見て、あの頃の気持ち、放送に夢を抱いた気持ちを思い出しながら、「まだまだ現役、頑張ろう」と再確認した次第です。
大橋照子さん、斉藤洋美さん、鶴間政行さん、またイベント実行委員会の皆さん、ありがとうございました。
6月。弊社、西日本放送の様々な番組で活躍した2人の同僚が、人生の大きな転機を迎えました。
采野友啓さん。1977年に西日本放送に入社し、長年アナウンサーとして活躍。特に、朝のラジオ番組「さわやかラジオ」では、「うねやん」の愛称とともに、香川県の朝の顔として多くの方に親しまれてきました。その後は様々な部署で番組を作り支える側に軸足を移し、このほど主戦場だったラジオで、会社員としての卒業の日を迎えました。その堅実・丁寧な仕事っぷり、また、語り手としても作り手としても、常に最新情報を発信し続けるという放送人としての姿勢は、後輩として、これまで学ぶ事が数多ありました。
卒業後も時間の許す限り、弊社ラジオで、ベテラン放送人として番組作りに参加する予定の采野さん。生涯現役も良いですが、「おじいちゃん」としての役割も、しっかり楽しんで下さい(笑)。
小御門千絵さん。2010年に入社し、翌年4月からはRNC ニュースeveryのキャスターに抜擢されました。その後の活躍は言うまでもなく、皆様、ご存知のこととは思われますが、このほど弊社を休職し、国際協力機構JICAの青年海外協力隊員として、東ティモールに派遣されることになりました。2年間の活動期間、現地の国営放送で番組作りに携わるということです。
現在、私(日野)は、RNCニュースeveryの放送ディレクターを兼ねていて、スタジオ副調整室で陣頭指揮をとっていますが、とにかく小御門さんは一騎当千。追い詰められた状態でも、この人なら何とかしてくれるという安心感。2~3説明すれば10理解してくれる頭の回転の速さ。その語り手としての瞬発力の高さは、弊社歴代随一と言っても過言ではありません。そんな頼りになる彼女の旅立ち、戦力面ではとにかく「痛い」の一言ですが、それでも、崇高な使命を果たそうとする、その志に最大級の賛辞を送りつつ、笑顔で見送りたいと思います。
小御門さん、行ってらっしゃい!
帰ってきてね(´・ω・`)
皆様、年末年始はいかがお過ごしでしたか。私は社会人生活初の暦通りのお休みを頂戴し、ミカンとお酒常備のこたつでテレビとゲーム三昧でした。初夢は、録音に失敗したコマーシャル音声を誤って放送され、それを聴いて慌てて局に電話するという、とてもリアルな事故の夢で散々でしたが、おみくじは大吉でしたから、まあ差し引きゼロということにしておきましょう・・・。
平成元年から始まった私の社会人生活も、気が付けば30年目。その平成の元号も来年には新たな元号に変わろうとしております・・・・。皆様、今年もよろしくお願い申し上げます。
お気に入りの正月用にゃんこぐい呑み
秘密のフォルダに保存していた画像を、本日蔵出し。この春、弊社、西日本放送に仲間入りした3人のアナウンサーの、入社直後の姿です。
テレビをご覧の皆様は、既にお気付きの事と思いますが、新人3人は各々研鑽を積み、厳しい訓練を乗り越えて、逐次、テレビニュースデビューを果たしております。
私は例年通り、陰ながら独り立ちのお手伝い役。石井、松田、村上、後は転びながら自力で歩き方を覚えて、どうか大きく羽ばたいておくれ。おっちゃんを踏み台にして(笑)
海上自衛隊の護衛艦くらま(DDH-144)がサンポート高松に接岸し、12月3日、4日の2日間、一般公開されました。見学に訪れた人達で長蛇の列が出来るほどの人気ぶりでした。
くらまが就役したのは1981年。1番艦の護衛艦しらね(DDH-143)の就役は、その前年。当時、中高校生だった私は、(当時の)最新鋭ヘリコプター搭載護衛艦を、どうしてもこの目で見たいとの気持ちを抑えられず、横須賀や佐世保に足を運び、念願の対面を果たしました。その後、今日に至るまで数多の海自の艦艇を目にしてきましたが、何故かこの両艦を目にする機会は無く、まさか今回、30数年ぶりに地元で再会出来るとは思いませんでした。昨年進水し、現在艤装中の航空母艦加賀・・・もとい「護衛艦かが」が来春就役するのにあわせて、くらまは除籍される予定です。また、しらねは既に除籍、新型対艦ミサイルの標的艦が最期の役目となりました。
引退前に会えて嬉しかったよ、くらま。
過日、高松市内で開かれました、高松第一高等学校の全学年同窓会・桜紫会、会員の集いに参加しました。毎年、50歳を迎える学年、つまり今年は私の代が幹事を務めていることもあり、今回は司会を承りました。最年長の戦前卒から、最年少の平成24年卒まで、世代を超えて集まった271人。西鉄ライオンズの黄金期を支えた偉大なる先輩、中西太さんの講演。そして、中央球場や香川県営野球場に響いた応援歌「一高のファイト」も披露され、会場の空気は、高松一高の自由闊達な雰囲気そのものでした。
会場では私も多くの先輩、後輩と再会しました。私の高1の時の担任の先生は、御年80歳。また、私が在学中に赴任して来られた先生方は、今では校長、教頭としてご活躍です。
そして、先輩後輩の中で西日本放送での関係者と言えば、この方!かつてRNCラジオで番組をご一緒し、今では婚活アドバイザーとしても活躍中の、脇光雄さんです。笑福亭小つるさん(現・枝鶴)とともに、弊社ラジオで大暴れ、もとい、頑張っていた、この業界での先輩は、私の高校の先輩でもあります。久々の再会でありました。またご一緒に、面白い事を仕掛けたいものです。
ドイツマルクとかフランスフランとか、イタリアリラとか、記念のつもりで自宅に保存していたユーロ統合前の硬貨を引っ張り出してきました。イギリスが国民投票でEU離脱を決めた事で、「欧州各国で離脱の連鎖が起きる懸念」を伝えるニュースを目にしますが、結果、万が一これら旧通貨が日の目を見る時が来る様な事があったら、それはそれで怖いなあと思いながら、過去の旅の記憶を反芻しているところであります。
HDDで腐らせ、もとい、温めていた蔵出し画像を本日公開。
画像は弊社、池田大樹アナと森下由香アナ。1枚目は昨年4月1日、つまり2人が新社会人としての一歩を踏み出した日に撮影したものです。画像からも初々しさと、若干の緊張感が伝わってきます。
そして、2枚目は本日4月1日、everyフライデーのスタジオにお邪魔して撮影したもの。つまり1年経過した、入社2年目の2人です。何と言うことでしょう!この森下の、すっかり慣れきった表情(笑)そして池田は、少し精悍な顔つきになりました。
2人とも今や、すっかり弊社の戦力と化して日々奮闘しております。
本記公開終了
宮崎県の航空自衛隊新田原基地で開かれたエアフェスタに行ってきました。あいにくの雨の基地祭となりましたが、それでも基地に近い駐車場からどんどん埋まるという盛況ぶりでした。
今回、この基地に配備されているF-4EJファントム戦闘機に「会いに行く」のが一番の目的でした。名機F-4、多くのマニアに愛されたファントム無頼、日の丸F-4も機齢40年を超え、新鋭機との交代で近く引退する事が決まっています。完全に旧世代ではありますが、それでもしっかり整備され、近代化が施され、操縦者も腕を磨き。まだまだ若い者には負けんぞ、と。それでもいつかは引退の日が来ます。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。このあたり「同世代」の私と、何と言うか重ねてみるところもありました(笑)
ファントム爺ちゃん、最後の日までお元気で。俺も頑張るよ。
先日、所要で山形放送にお邪魔しました。学生時代に単車で行って以来の山形訪問で、初めての山形新幹線も堪能(熟睡)しました。
およそ四半世紀ぶりの再会、山形放送の佐伯敏光アナウンサーです。入社年は彼が一年先輩ですが、平成元年に日本テレビ系列のアナウンス研修を受けた仲で、宿舎も同室でした。その穏やかな表情や朗らかな人柄も昔のまま、ただし往年のヘビー級(失礼)の面影は無く、すっかりウェルター級の体型に変わっていたのには驚きました(笑)。今でも最前線でご活躍とのこと、 おじさん達は、まだまだ頑張っています。
熊谷富由美アナが、弊社・西日本放送を退職しました。退職とは言っても、今後もフリーランスの語り手、作り手として、弊社の番組作りに携わるとのこと・・・ですが、それはそれとして、お世話になった者としては、やはりこの節目にお礼をしておきたい!という訳で、送別会的なランチに行って参りました。
ランチには、熊谷アナとともに、やはり今月で弊社を退職するNディレクター、そして、熊谷アナが育てたと言っても過言ではない伊達アナとご一緒しました。熊谷アナとNさんは、私がまだ社会人駆け出しの頃に携わったラジオ番組「ワイド・まっぴるマン」の、制作責任者とメインパーソナリティー。平成初期、弊社ラジオに衝撃を与えた伝説の番組の、懐かしい思い出話に花が咲きました。一致した意見は「面白い事を仕掛けてナンボ」。あの番組は、私の放送人としての、言わば原点です。その番組立ち上げをご一緒した、私に多くを教えてくれた二人の退職を慰労する日が来るとは・・・
私も来年で50歳(うわぁ・・・)。そう遠くない将来、弊社を卒業する日がやってきます。その時、先輩方と同じ様に、次の世代を担う者に何かを伝承出来たら、そして放送の歴史に、何かしら足跡を残せたら、それは私にとって至上の喜びであります。熊谷さん、Nさん、お疲れ様でした。バトン、確かに受け取りました。そして今後ともよろしくお願い申し上げます。
・・・あ、私の場合、残すのは足跡ではなく、爪痕かもしれません(笑)
本記公開終了
年明け1月2日、母校である小豆島の渕崎小学校を訪れました。
土庄町では、豊島を除く町内の全小学校(土庄・渕崎・四海・北浦)が統合され、今年4月に新「土庄小学校」が開校することになっています。それに伴い閉校となる渕崎小学校が、多くの卒業生が帰郷しているであろう正月休みに一般公開されたもので、これを機に母校にお別れをと、朝早い高速艇に飛び乗った次第です。学校の敷地内に足を踏み入れるのは、卒業以来、実に36年ぶりのことでした。
小学校の創立100年を記念した「年輪」の石碑。私が小4の時に建立されたものです。
教室、廊下、職員室、そして、かつて多くの花で飾られた中庭、何もかも小さく感じました。在学中の寒い冬のある日、その中庭の池に張った薄い氷の上に立とうとして、全身ずぶ濡れになった児童の姿を思い出して、思わず吹き出しました。
職員室の中にある校内放送設備。マイクを通して人様に語りかけるという作業に、恐らく生涯初めて携わった場所です。
学校の統廃合をエリアのニュースとして皆様にお伝えする際、少子高齢化、過疎化、耐震化の予算の問題、市街地空洞化云々・・・理屈の上では理解出来ても、「母校が無くなる」という感覚までは、正直、わかりませんでした。自分がこの世から居なくなっても、「居た証」を残す場所だけは、未来に繋がっていると思っていました。
いつまでも、いつまでも、そこに在ると思っていました。
たった数時間の小豆島滞在は、懐かしくもあり、寂しくもあり。
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